西原正樹オフィシャルサイト お問い合せ
Masaki Nishihara
Home Profile Schedule Photograph Shopping Diary BBS Link




その15 1997年

96年の暮れもキャロッセの忘年会、そして30日にゴルフをして新年を迎えました。
正月は京都に帰り実家でお正月。
クレイズコマースの新年会をして群馬に帰る。
オートサロンに行き、フォーミュラクラブでのラリーテストをこなす1月でした。
1月からジムカーナタイヤテストもあり、バタバタ忙しくしていました。
この年はTOSHI ARAIと一緒に走りだした年だったようです。

イニシャルDの取材なんかもあった年です。
AE86を乗り継いだ運転手ですから、確か居酒屋で加勢さんや、石田さん(マルシェ)、
石田さん(C-ONE)、桜井さん、大嶋さんが集まった記憶があります。
イベント出演も多く、スノーボードの仕事もあり忙しくしていました。

しかし大きな問題が2月から始まっていました。
13年も前のことだから書いても良いと思う。
2月にBS、僕、キャロッセの間で少し問題が起こりました。
その後にティーズ、僕、キャロッセの間でも問題が起こりました。
BS、ティーズさんは僕のスポンサーとしてお付き合いしていただいてきました。
詳しくはやはり書けませんが、5月に専務からBSを取るかキャロッセを取るか
択しなさいと宣告されました。
僕の生活はメインスポンサーであるBSさんで成り立っていました、
選択の余地がありませんでした。

当時のスポンサーさんはBS、KYB、BP、BRIDE、 WINMAX、ライセンスA、ARAI、RAYS、
ツーアンドフォー、キャロッセさんでした。
5月に社長にチームを抜けさていただきたいと報告、加勢さんからもう少し考えろと言われ、
2ヶ月考えました。
7月末に加勢さんにやはり辞めることを報告。
9月にもう一度話し、この時は確か高崎のお寿司屋さんで大井さんもご一緒だったように思います。
この席で若かった僕は、GTカーについて生意気な意見を言ってしまい加勢さんを
怒らせてしまったみたいです(これは後からひとずてに聞きました)。

そして10月31日JAFCUPの週金曜日、社長から契約解除の連絡。
もちろん本番車はキャロッセの物だったので使用できなくなり、
急遽自分の練習車を整備し夜キョウセイに向かうことになりました。

セッティング等出ていなく車が全く思うどおりに動くことはなく、メカニックもおらず、
急遽大原兄弟に助けて頂きました。
KYBのスポンサーを受けていたので、KYBのイベントでは山本さんとご一緒させて頂き
大変お世話になりました。
山本さんとは1982年の富士で初めてお会いし、僕は初めての全日本20才、
山本さんはアドバンカラーのプロドライバー、憧れましたね。
山本さんの車を作っていたのが大原 健チーフメカ。
翌年からファクトリー大原でお世話になることになります。

この年の全日本は、茅野と一騎打ち、最終戦伊那までもつれました。
BSvsDL? キャロッセVS LUCK? みたいな感じで必死でしたね。

車は同じインプレッサGC8. 僕の間違えはシーズンはじめにジムカーナにもロールゲージのイメージを
付けましょうということで、ラリー車と同じようにフルゲージを組みました。
対する茅野君はロールゲージ無し。重量差30キロ弱。 それでも浅間台、タマダ、砂川、と優勝し、
茅野君はキョウセイ、SUGO、 九州、名阪と4勝で迎えた最終戦伊那。

伊那ではかなりのテストをしました。
そして最終戦、優勝しV4を決めました。
長瀬君とハイタッチしたPDの写真がありました。
この頃の長瀬君はまだ痩せてましたね、今やキャロッセの社長さんです。

いろんなことがあった1997年。年末はまたフィリピンでジムカーナ。
キャロッセとお付き合いが始まって10年、群馬に来て5年、加勢さんをしたって来た群馬、
でもお別れすることになりました。
群馬に友達もおらず、知り合いは全てキャロッセのメンバーだけ。

翌年からが大変でした。
1998年はいろんな意味で97年より大変だったかもしれません。
西原正樹がつぶされる寸前でした。

To be continued.


その16 1998年


プロフィールへ戻る

Copyright (C) 2005 VORTEX Corporation. All Rights Reserved.