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Masaki Nishihara
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その7 1988年

この年は色々な事がスタートしたという感じです。
ダンロップジムカーナスクールが始まりました。TWO & FOUR岡波さんと手探りでのスタートです。TWO & FOURさんのスポンサーもこの年が始まりでした。初めて契約金をいただきました。

DUNLOPの担当は、山田課長代理、現在は住友ゴムの偉い人です。
使用車両は前年と同じAW-11のMR-2。
キャロッセ(現CUSCO)との契約もこの年から。はじめは、LSDのテストでした。加勢さんはすごい発想の持ち主で、いろんなアイデアが製品になり、テストを繰り返すというかんじです。
当初LSDも、すぐにうまくいった訳ではなく、ジムカーナ特有のハイグリップタイヤに加え、キャロッセがターマック競技を扱うのも初めてでしたので色々あり、大変面白く、そして多くの事を勉強させてもらいました。
ブレーキパッドはエンドレス、直接ではなかったけど、やはりジムカーナに目を向けてくれました。
ショックはKYB、KYBのジムカーナショックもこのときが初めかな?当時のメモを見ると、ストリート用を装着したりもしてたみたいです。
ホイールはSSR、オイルはザーレンオイル、メンテナンスやエントリー代等、毎日お邪魔してお世話になったのがBOOBOW伊藤さん、バケットシートはGREG、タケダオートさん、テクニカの乾さんにもお世話になりました。
テクニカさんとのおつきあいは、この年K-CARがブームだったのか、K-CARスペシャルという雑誌の仕事で軽を乗る事が多く、名阪で初めてお会いしました。
今有名人の、木下隆之さんともこの時、何回かお仕事させて頂きました。

プライベートの方は、親父が春に不渡りを出し半分破産状態。親戚の家を借金のお願いで廻った事を覚えています。でも26才の車大好き人間では、誰からも協力してもらえませんでした。
それからしばらくして、保証人になってもらえる人が見つかり、借金をする事ができ、なんとか最悪の破産宣告は免れました。でも今考えると、あのとき親父は破産宣告した方が良かったのかな?と思う時があります。
26歳の僕がなんで何千万も借金を背負わなければならないのか、これが運命!でも本当は、めちゃくちゃ困って方々頭下げてお金を借りて、苦難を乗り越えられた経験が、今の僕を支えてくれていると思っています。

こんな状況でも練習はしてましたね!!場所は宇治田原が多かったようです。
練習仲間は、多田、田中、内田、岡崎、足立、松井、ダニくん、、、、沢山いました。今は超有名人の田中哲也君は、この年ジムカーナを卒業し、鈴鹿シルバーカップのFJ1600に行く事になりました。藤村さんのところでお世話になり始めました。

またダンロップのスクールで、初めて四国の阿山サーキットに川脇兄ちゃんと行ったのを覚えています。
兄ちゃんはこの年めでたく結婚しました。
会場で速かったのが徳島の田中さん、天満選手が以前、勤めていた会社の社長さんです。
シーズン途中でテクニカさんのショックのテストもしていました、テイン製です。
テインさんも会社を立ち上げて間もなくのころだったと思います。

この年の全日本は関越スポーツランド、ISCCジムカーナです。
斉藤邦夫選手がGA2シティーで優勝したり、森田さんがめちゃくちゃ速かったりした年です。
僕はというと、テストのため関越に何回かは行ったのですが、全く上手く走る事が出来ずに困っていました。その時の走りを最近ビデオで見ましたが、すごい車でした。こんな足でよく走ってましたねって感じです。
全日本が近くなって、ショックを色々テストさせて頂いていたのですが、あまり時間もなく、うまくいきませんでした。当日も、会場でバタバタしていた記憶があります。何事もはじめはうまくいきません!結果は6位

この年は本当に、いろんなお付き合いが増えた1年でした。
なんと、衆議院議員奥田幹生先生の後援会のお仕事もしてたりしました。
E地区戦では6年連続チャンピオン! 10戦中6回優勝、2位3回、3位1回という成績でした。

To be continued.


その8 1989年

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