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Masaki Nishihara
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その3 1982年から1983年
確かこの頃、雪道の練習用にサニーを買った覚えがあります。

マカロニピンのフルスパイクをはかせたこのサニーは、雪道なのにグリップがありすぎて強烈だった印象があります。
練習方法は、とにかくぶつかってもいいので思いっきり全開走行!何回も雪壁にぶち当たりながら練習したのを覚えています。
ここでも、中島さんのテクニックを見せつけられました。

雪が降ると花背から「ささり」へ、山はラリー車で渋滞です。
昼間は「喫茶店オレンジ」や「宮川ラリーサービス」、「小林ドライブショップ」などで待機、雪が降ると無線で連絡を取り合い、夜になるのを待ってみんなで山へ集合!

そうそう無線で思い出したけど、山を走るの時に必需品なのがアマチュア無線。センタービジーにして、ラジコンカーのように屋根の真ん中にアンテナ。ホルソーで屋根に穴をあけるなんて、はじめはびっくりしたけど格好良かったな。
「JK3MTQ」これがその当時のコールサイン。無線がないと山は危なくて走れませんでしたね。
友達が転落しても無線で助けがくる。ランクルファンクラブの寺田さんには、皆お世話になりました。寺田さんは材木屋の社長さんです。ランクルの世界では超有名な方です。

寺田さんの主催するランクルのラリーにナビで出場した事もあります。
円盤片手にナビゲート、今では使い方も忘れてしまいました。そしてそのラリーで初の転倒。それも川の中のSSで、頭の上に川が流れていました。
話をジムカーナに戻しましょう、TE71からランサーA175に乗り換えるのですが、どうして・いつ頃乗り換えたのか記憶にありません。でも友人達に「彼女が変わると車も変わる」と言われていたのは覚えています(笑)。

ランサーA175はTE71と比べると、エンジンは廻らないけどターボパワーが強烈で花背のレコードは更新することができました。
1983年のジムカーナはすごく成績がよく、JAF戦5戦全戦優勝、中部シリーズ3勝、13戦9勝、2位3回、そして全日本だけが3位。この頃からかな、全日本になるとうまく走れなくなったのは?

この年の全日本は地元の鈴鹿サーキット、この年はほとんど負けなしだったので、全日本に向けて新しいホイールに変更、このホイールを変更したことによりオフセットが変わってしまい、思ったように車が動かなくなったため惨敗。今にして思えば、オフセットによって車の動きが激変する事ぐらい簡単に解るのですが、なんせその当時は何も知らなくて・・・。優勝は中部の西岡さんだと思います。元気にしてるかな?

そして、この年の最後にアクシデント発生。
例によって雪が降り、喜び勇んで花背へ行った時のこと、花背からささりへ向かう3速か4速の下りの左コーナーへドリドリ!!?っと進入、オーバスピードで横を向いたまま雪の壁に向かって行き、角度が悪くそのままひっくり返ってしまいました。人生2度目の転倒。同乗者は京都でガレージをしている冨阪さんと藤井君。今でもたまに会うと言われます「首が痛いな!」って。。。
ひっくり返った車をなんとか家まで乗って帰りましたが、翌朝が大変でした。
母や近所の人に「どうしたん?」と質問攻めに合いました。そりゃあそうですよね、、屋根はつぶれてるし、フロントガラスはクモの巣だし。
この時はさすがにロールバーが欲しいと思いました。

そしてこの後、TOYOTA AE86を3台乗り継ぐ事になります。

To be continued.


その4 1984年から1985年 AE86投入

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