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Masaki Nishihara
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その2 初めての全日本編
モータースポーツに興味を持つようになった最初の頃は、友達のTE27トレノを借り町中で練習していました。そんなある雨の日、交差点でいつものようにドリフトで遊んでいてコントロールを失い、中央分離帯に激突してしまったこともありました。
そのTE27では3回程ジムカーナに出場しましたが、初出場は2本ともコースオフ、3回目にやっと3位に入賞する事が出来ました。
これで益々モータースポーツの虜になり、トヨタのTE71の購入に踏み切る事にしました。資金不足の為、夜はロイヤルホストで深夜までバイト、バイトが終わってから練習に行くという生活でした。
TE71が納車され1〜2週間目のある晩に、中島さんと一緒に阪奈道路に練習に行く事になりました。最初は中島さんが運転、その後交代して僕が運転した1本目のトライの時に、高速からのヘアピンコーナーでオーバースピードだったらしく、ブレーキと同時にブレーキアンダー、そしてドッカーン!!!
あっという間に新車が事故車に変身してしまいました。修理が終わるとすぐに花背に練習に行きました、当時付き合っていた彼女の家が花背に近く、毎日のように花背に行っていたように思います。
花背以外にもいろんな山へ練習に行きました、時にはロングの練習として何時間も走り続ける様な事もしていました。知らない山道を全開で攻めたり、前の車について行ったり、大勢の先輩や友達がいたから面白かった。
ラリーをやっている友達も多かったので、走る峠道の情報に困る事はありませんでした。ハイスピード・テクニカル・タイトな道・ワイドな道、何でもありました。たまにラリーの練習について行ったりもしました、箱館山の30kmぐらいのSSは面白かったように憶えています、もちろん助手席でしたけど。
ダートを走ると車が壊れる、お金がない、走れない、だから自分は舗装だけ。
当時のTE71はショックアブソーバをはじめ何から何までノーマル、ただLSDが入っているだけ。練習の時のタイヤは純正のトーヨーZラジアル、ハイグリップタイヤなんて買うお金もないし、いずれにせよ走ればすぐになくなるので純正で十分だった。
花背に通うようになってから半年も過ぎた頃には、コースレコードを持っていたと思います、確かではありませんが。
その当時よく一緒に走っていたのが、中島さん・辻井君そして僕の初めてのスポンサーになってくれた小林ドライブショップの荒井さん、皆さん元気にしていますか?
1982年 TE71でD地区(当時は関西地区と中部地区をあわせてD地区だった)戦に出場する事になる。地区戦は年5戦あり、優勝1回でシリーズ3位になることができた。この年は12回ジムカーナに出て4回優勝しました。
11月に全日本選手権に初めて出場する事になり、遠く富士スピードウェイの今はなきCパドックへ遠征しました。あの当時は関東方面に車で行くなんて年に1回あるかないかの大行事でした。
その全日本はTV放映もあり、山本真宏選手や片野選手の改造車が格好良かったのを覚えています、また全日本ジムカーナに現在も現役で出場中の森田勝也選手も出場されていました。
初めての全日本の結果はクラス2位、中島さんは3位、でも2人ともしっかりTVには写りました。
この全日本の会場で、初めてサイドターンというものを見ましたが、僕はサイドターンなどやった事もなかったので、サイドは使用せずに走行しました。
クラス優勝したのは新潟の佐藤選手、あの頃同じクラスはRX-7(SA22C)ばかりだったように思います。
関東の人は僕らのTE71を見てびっくりしていたみたいです。
その時はタイヤスポンサーも何もなく、ていうか何も考えてなかったように思います。だって車は普段の通勤車なので、ショック、タイヤ、ブレーキ、何でも良かったように思います。今考えるとタイヤを買った記憶がありません、練習用や普段履きは友達の中古をもらって使っていたように思います。全日本の時だけは、確か小林ドライブショップさんがタイヤを提供してくれた様な記憶があります、荒井さん憶えていますか?
この年は小林ドライブショップのTVコマーシャルにも出演していました、確か鈴鹿のジムカーナコースで撮影したものでした。
また、この年にダンロップさんへタイヤサポートのお願いをしに行ったように記憶しています。松本誠さんのところへお願いに行き、松本さんから故京極部長さんに紹介してもらいました。何でも体当たりの精神です、ダメモトですから。
でも翌年からダンロップさんにタイヤを協賛して頂けるようになりました、最初は確か1セットだったと思います。ダンロップさんとは、この後1995年までお世話になる事になります。
とにかくお金がなかったので、色々なところにスポンサーのお願いに行きました、全日本2位の看板だけで。。。

To be continued.

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