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Masaki Nishihara
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その1 幼少期編
西原 正樹    1962年2月21日生まれ
京都府京都市左京区北白川にて誕生、3人兄弟の末っ子。
比叡山の麓に生まれ、小さい頃の遊び場は山。夏は兄貴や兄貴の友達と山の小川、秋は栗拾い、冬はそり遊び、その当時は家で遊ぶ事は全くなかったかな。
小学校2年ぐらいから、そろばんと水泳に励み、どちらも競技会に行っていました。この頃から競技体質だったのかもしれません。
小学校4年のときに北白川から山科に引っ越し、少年サッカーにハマる。これも合宿や、大会に行っていました。サッカーは中学校卒業まで毎日続けていました。ずっとレギュラーでやれたのは良かったかな。走りには自信がありました。
毎年冬になるとスキーに行っていましたが、中学3年のときに競技スキーを見て虜になり、団体競技に疑問を感じていたので、高校から個人競技のスキーの道へ進みました。
しかし、高校(東山高校)にはスキー部がなく、一人で活動するしかありませんでした。1年生の頃から京都の国体予選に挑戦し、順位は覚えていませんが全くダメでした。
高校に入ると、趣味に対して親からの援助がなくアルバイト生活の始まりです。新聞配達をはじめ、いろんなバイトをしたかな。その当時はすごく硬派で全く女っ気無し。バイト一筋、その反動が・・・。
夏は同志社の部活に合同させてもらったり、冬になると大谷高校の合宿に参加させてもらったりしながら練習に励んでいました。3年の夏休みは富山県の立山に行き、雄山と言う頂上の小屋の荷物運びの仕事をしました。30キロぐらいの荷物を頂上まで担いで上がる仕事です。小屋では、風呂炊きから食事の支度まで何でもこなさなければなりませんでした。水道なんてあるはずもなく、谷に設置されたポンプ場まで行き、1時間ぐらい一人でポンプの音を聞きながら水を汲みに行き怖さとの戦いでした。なんせ、人の気配が全くない場所で、雪と岩に囲まれたほんの少しのスペースに一人ですよ、でも景色はすごく良かったのを覚えています。
冬まではとりあえずバイトばかりしてお金を貯めて、冬は山に出来るだけ行き練習。その甲斐あって3年の国体予選を2位で通過し、同じ大会のスラロームでは優勝し、晴れて北海道小樽国体に出場しました。
インターハイ予選も特別に出場したのですが2位か3位のタイムでした、でも学校にスキー部がないのでインターハイに行く事ができず、がっかりしたのを覚えています。
国体での成績は覚えていません。全くコースに歯が立たたず、この大会で自分のスキーに見切りを付け競技から離れる事にしました。理由は、中学生に全く追いつけない有様で、情けなかったから。
大学は受験はしたが受かる気はしなかった。なんせ毎日夜中までバイト、受験前はスキーばかりで勉強はした事がなかった、でも学校の成績は良かったけどね。1校だけ受験し諦めて就職。
当時お世話になっていた、DO SPORTSというスポーツ店に入社。スキーをやめて、ボーとしていた様に思います。
車の免許は、18歳になってすぐに取得、仮免テストは100点満点。卒検はアクシデントにより2回目で卒業。免許のない頃は、友達の兄貴と一緒によくTOYOTA TE-27トレノでドライブに連れて行ってもらったりしていたかな。
レーサーだった友達はTE-27レビン、純正のオーバーフェンダーにSOLEX装着、あの当時はホントカッコ良かった。
僕の初めての車は三菱ミラージュ(なんと8段変速)、就職して半年した頃に親父が脱サラして商売を始めるというので手伝う事に。配達用兼自家用車として当時山内伸弥さんがラリーで乗っていたミラージュを本で見て、派手な黄色のミラージュを購入。
なぜか高校時代、僕の下敷きには松本誠さんのエンケイカラーのTE37。後にお付き合いが始まるとは不思議なものです。
ミラージュに乗り始めても、しばらくはモータースポーツとは縁がなかった。
あの当時は、毎日彼女の家にイリビタリだったかな・・・。
その夏の終わり頃かな、友達に誘われて京都の花背峠に行ったのは。
すごい走りをする人が一杯いて、今日は何秒とかスキーと同じ様にタイムを競っていました。タイム争いをしているということ事で忘れていた闘争心に炎がくすぶりはじめました。この当時はラリーと一緒で2名乗車で走っていました、ストップウォッチ片手に無線を聞きながら。
当時、ジムカーナや京都で有名だった中島さんがみんなの師匠、そして僕の助手席に初めて乗って、「半年も練習したら、そこそこ走れるようになるんちゃうか」と言われた瞬間に心の炎が全開に「半年もかかるか!悔し〜ぃ」と思ったように記憶しています。
中島さんは、それから長い間僕のドライビングの師匠です。なんせ、いつも同じ車でのタイム争いですから、タイムで勝つまで必死でした。

To be continued.

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