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Masaki Nishihara
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その5 1986年

そう、この年は資金難に陥っていました。

昼は自営業の営業、夜は祇園のクラブでボーイの仕事をしていました。
夜の祇園では色々勉強させてもらいました。怖い世界の人や、社長さんの遊び方、ホステスの裏表、ママさんの営業努力等々、本当に面白い世界でしたが仕事は大変でした。

この年、クラブのお客さんだった安田さんに鈴鹿のシビックに乗る機会を作ってもらいました。
安田さんは鈴鹿シルバーカップ等に出場されていたレーサーです。安田さんの子供はゴーカートで超有名人、現在はレーサーです。

そして、鈴鹿の西コースを初めて走る事になりました。初めてのシビック、初めてのFF、確か10周ぐらいさせてもらったのかな、かなりいいタイムで皆ビックリしていたのを覚えています。

これがきっかけでFJ1600に乗ってみないかというお誘いもあり、何回か西コースと東コースを走行させてもらいました。FRDのFJ1600でした。当時の僕の技量ではフォーミュラはうまく乗りこなす事が出来ませんでした。ロールのない車が初めてだったので、なかなかタイムが出ませんでした。2回目ぐらいの東コースでやっとタイムが出るようになりました。「このままレース界に行こうかな・・・」なんて考えはしましたが、全くの資金難、親父は破産寸前、僕は昼・夜と仕事、その当時のシビックレースでさえ1000万円が優勝ラインと言われていましたので、そこでレースのお話は終わりです。

ジムカーナの方は、この年からE地区とD地区が別れて関西地区みたいになりました。JAF戦は鈴鹿と名阪だけ、この年は6戦全勝で4年連続のチャンピオンになりました。この年の全日本は白糸、JAF戦以外は白糸に毎月遠征すようになりました。ちょうど日曜日は祇園のクラブの仕事がお休みなので、時間の調整がうまくいきました。この年は白糸の地元アジュールの川村さんにお世話になりました。ショックはマジョルカ製を使っていました。

新しくなった中部地区からは、ラックカラーのすごい奴がいるという噂が伝わってきました、茅野君の登場です。
確か白糸で初めてあったように記憶しています。ラックのフルカラーの86、かっこ良かったですね!当時カラーリングしている車なんていなかったもんね、僕の車も営業車兼用でしたから。

茅野君はビルシュタインの足をうまく利用して、縁石をまたぐように走るのが非常にうまかったのを覚えています。茅野君とは、なんか気があって今年で20年目ぐらいのお付き合いかな、今でも良きライバルです。

白糸の全日本の時は、茅野君と二人で森田さんと宿で話をしたり、ビールをごちそうになったのを覚えています。森田さんは飲めないのでお酌だけでしたけど、お母さんと二人で注いでくれたので、二人して酔っぱらったのを覚えています。当然、次の日は森田さんの優勝でした。

この年の白糸で困った事は、サイドターンが出来なかった事。今にして思えばリアのシューも効かないものでしたね。なんせ関西地区はパイロンがなく、サイドを使った事がありませんでした。
京都では、サイドの練習に京都産業大学に行った事を覚えています。夜にみんなで練習、練習が終わって喫茶店というパターンでしたね。

全日本でもサイドターンがうまく出来ず3位、優勝は森田さん、2位は新潟の小林さん、サイドさえ無ければという試合はこの後何回と続きます。

1987年からはAW11が登場します、シーズン中に乗り換える事になります。


To be continued.


その6 1987年

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